今週末、警固教室で開催する音楽の話「J.S.バッハの生涯と音楽」に先立って、少しだけ記事を書きたいと思います。
読者の皆さんはバッハがどこの国の作曲家なのかご存じでしょうか。はい、もちろんドイツですね。ドイツ三大Bの筆頭です。しかし、意外なことにバッハの祖先を辿っていくと、そのルーツはハンガリーだというのです。バッハは50歳になった時「音楽家バッハ一族の起源」という記録を書き残しました。それによると、バッハが音楽家一族のルーツをハンガリーのパン職人、ファイト・バッハに見出していたことが分かります。リュートを弾くのが好きだったファイトは、安心してルター派プロテスタントを信仰できる環境を求めて、ドイツのチューリンゲン地方へ移住してきます。そして、そのファイトの孫にあたる人物、ヨハン・バッハが一族最初の職業音楽家になったとされています。ヨハン作曲による「私たちの命は影のごとし Unser Leben ist ein Schatten」という美しい曲がありますので是非聴いてみて下さい。チューリンゲン地方の各地で街楽師、教会オルガニスト、宮廷音楽家として活躍したバッハファミリーですが、その音楽の血はヨハン・セバスティアン・バッハへと受け継がれることになります。まるで一族の栄光が一点に集約するように。
その後、バッハの成人した息子6人のうち5人が音楽家として名を残しました。あとの1人は知恵遅れだったそうで、バッハの娘夫妻(夫はバッハの弟子)のもとに引き取られていることからも、バッハ家の並々ならぬ結束を感じます。バッハの息子たちの時代では、職業を世襲するという価値観が薄らいでいき、バッハ家の男子はそれぞれ違う仕事に就き始めます。唯一、ビュッケブルクに住むフリードヒリ(後妻アンナ・マグダレーナとの子)のみ息子のエルンストを音楽家に育てたのですが、この人物がバッハ一族最後の音楽家となりました。すでに音楽においても個人の価値観によって表現する時代が到来しており、偉大な職人的音楽家の系譜はここに終焉を迎えるのです。バッハの次男エマヌエルが書き記した「故人略伝」によると、音楽家バッハの数はなんと53人。ヨハン・セバスティアン・バッハの功績を語る時、この偉大なファミリーヒストリーなしには語れないと思うのです。